……もうひと眠りしよう。ボクは再び目を閉じて寝返りをうった。途中、足の間になにかが当たる感じがあったけど、特に気にしなかった。枕に頬ずりをして、おしゃぶりのかわりにパジャマのえりを口にくわえる。少しの間うっとりとそれをちゅうちゅうしてから、ボクはふとちんちんがムズムズするのに気が付いた。
−−あ……おしっこ、したいかも……
どうしよう。トイレに行ったほうがよさそうだけど、布団からは出たくないし。ちょっとだけなやんでから、ボクはいいことを思い出した。そうだ、昨日はオムツを履いて寝たんだった。だったら、
−−このままおもらししちゃっても、いいよね……
ボクは半分夢見心地で、もそもそとパジャマのズボンに手を入れる。けれどその手がオムツに触れた瞬間、ボクの眠気はいっきに吹き飛んだ。
「えっ!?」
ボクは慌てて起き上がった。布団を払いのけて、オムツを履いている部分を見下ろす。ズボンの上からじゃ暗くてよくわからない。乱暴にズボンを脱ごうとすると、オムツの内側のじめっとした感じがちんちんの下あたりに押しつけられて、ボクはまた声をあげそうになった。脱いだズボンを放り出して、もう一度そこを見つめる。
お気に入りのプーさんの紙オムツの股の部分が、ぱんぱんにふくらんでいた。
「え……うそ…………」
ボクは再びオムツに触ってみた。ふくらんだ紙オムツの表面には、普段とは違う温かさがあった。ちんちんが当たるところからおしりの方まで、ぶにぶににふくれあがっている。オムツの中がすごくじめじめしているのがわかる。おそるおそる中に手を入れて、おしっこを吸収する部分を指で押してみると、じゅくじゅくと湿った感触がした。
もう部屋の電気をつけて、オムツの内側の色をたしかめる必要もなかった。暗い部屋の中、ボクは信じられない気持ちでつぶやいた。
「うそ……おねしょしちゃったの、ボク……」
その日の放課後、学校から帰るとすぐに、ボクはお姉ちゃんの家に向かった。今朝のおねしょのことを相談できるのは、お姉ちゃんしかいないと思ったから。なのに、ボクの話を聞いたお姉ちゃんの言葉は予想外に軽くて、
「へえー、むぅちゃんおねしょしちゃったんだ。どう、きもちよかった?」
「き、きもちよくなんかないです!」
「そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない。ぬれたオムツのぬくもりと幸福感に包まれてまどろむ、少年睦月10才の冬の朝であった、なんてね。あ、暦の上ではもう春か」
ちっともまじめに話を聞いてくれないお姉ちゃんに、ボクは思いっきり頬をふくらませて抗議する。だけどお姉ちゃんはいつもの意地悪な笑顔のままで、ボクに哺乳びんを渡してくる。ボクは黙ってそれを受け取り、哺乳びんの先に口をつける。哺乳びんの中身は、ハチミツをたっぷり入れた赤ちゃん用のミルク。ちゅうちゅうと吸い口を吸うと、甘い味が口の中に広がって、ボクはついお姉ちゃんに恐い顔をするのも忘れてしまった。
ボクのとなりに座りながら、お姉ちゃんは思い出したように言った、
「あ、けどそっか。むぅちゃんけっこう肌弱いから、おねしょでかぶれちゃうと大変だよね。今日帰りにベビーパウダー買ってあげるから、今度から寝る前に使うといいよ」
「そういう問題じゃなくて!」
半分泣きそうな目でにらみつけると、お姉ちゃんは「ごめんごめん。わかったから、こっちおいで」とボクを手招きした。ボクは怒った顔のまま、お姉ちゃんのひざの上に横向きに腰かけた。お姉ちゃんはボクの背中に手を回して、自分の方へ抱き寄せる。ボクはちょっとちくちくする、お姉ちゃんのセーターの胸に寄りかかって、また哺乳びんをくわえた。
「けど運がよかったじゃない。おねしょしたって、オムツ履いてたから布団もぬれなかったでしょ」
「それはそうだけど……でも、おねしょなんて……」
「いやいや、高学年になってもおねしょしちゃう子って案外いるらしいよ。もしかしたらむぅちゃんのクラスにも、まだおねしょが治らない子がいるかもね」
「でも……」
恥ずかしいものは恥ずかしい。なによりボクは、小学校に入ってからこれまでずっと、おねしょをしちゃうことなんか全然なかったんだから。それが突然またおねしょをしちゃうなんて、もしかしたら体のどこかがおかしくなっちゃったのかもしれない。そんなことを考えて、ボクは今朝からずっと不安でしょうがなかった。
ボクが暗い顔で哺乳びんを吸っていると、お姉ちゃんがまた軽い調子で言った、
「まあ正直に白状すれば、おねしょの原因はむぅちゃんがいつも飲んでるそのミルクに混ぜた薬のせいなんだけどね」
びっくりして飲みかけたミルクをふき出しそうになった。ボクは大慌てでお姉ちゃんの顔を見上げ、
「ええっ、く、くすりって、なんの……」
「具体的には長い間繰り返し飲むことで、おねしょをしたりおもらしをしたり、赤ちゃん言葉を使うようになったりしぐさが赤ちゃんになったりします。簡単に言うと赤ちゃんになっちゃいます。そういう薬」
「えっ、え、うそ……」
「うん、うそ」
「お姉ちゃん!」
ボクは怒ってお姉ちゃんのひざの上から立ち上がろうとした。だけどお姉ちゃんはボクを抱きしめた腕をゆるめず、反対にボクの体をぎゅっと自分の胸に押しつけた。ボクはまた頬をふくらませてそっぽを向いた。お姉ちゃんの手が赤ちゃんにするみたいに、ボクの背中をなでなでしてくるけれど、それでもボクは口をきかない。
「あーもう、怒ったむぅちゃんもかわいいなあ。ほら、この前みたいにお姉ちゃんのおっぱい吸ってもいいから、機嫌直してよ」
「いっ、いいです! だってお姉ちゃんおっぱい出ないし」
「理由そこかい。いやわかんないよ、定期的に吸ってれば出るようになるかも」
お姉ちゃんがすごく楽しそうに「どう?」ときいてきたけれど、ボクは真っ赤になって返事をしなかった。相談になんか来るんじゃなかった、とボクは思った。ボクは本当に困ってるっていうのに。だけどそんな不満も、お姉ちゃんに背中をなでられているうちに不思議にしぼんでいって、ボクはお姉ちゃんに抱きつくと、やわらかい胸に顔をうずめた。
「ふふっ、むぅちゃんももうすっかり赤ちゃんだねえ」
上から降ってくるお姉ちゃんの声に、ボクは体をもじもじさせる。
「最初のころはオムツ履いて外に出るのも恥ずかしがってたのに、今じゃうちに来るときはいつもオムツ履いてるし、赤ちゃん服も哺乳びんも抱っこも嫌がらないし、おもらししたオムツも素直に換えさせてくれるし」
「……お姉ちゃん、恥ずかしい」
聞いているうちに耳の先までかあっと熱くなってしまって、ボクはうつむいた。お姉ちゃんがボクの頭をいい子いい子してくれる。ボクはまた哺乳びんをくわえてちゅうちゅうした。ちょっとだけおしっこがしたかった。オムツの中にしちゃおうかな、と考えてから、ふいにまた不安になって、ボクはお姉ちゃんに確認してみた。
「あの、お姉ちゃん。今日ボクがおねしょしちゃったのは、たまたまなんだよね。またおねしょしちゃったりとか、しないよね?」
「んー、どうして? おねしょしちゃうなんて本物の赤ちゃんみたいでいいじゃない。むぅちゃんは赤ちゃんになりたかったんでしょ」
「ち、ちがいます。ボクはただ、ちょっとオムツが履いてみたかっただけで……」
ボクはごにょごにょと言葉をにごした。するとお姉ちゃんはますます楽しそうな声になって、
「それだけじゃないでしょう? オムツにおもらししちゃうのも、こうやって赤ちゃんのまねしてあまえんぼさんするのも大好きでしょう」
「そっ、それは! もともと、お姉ちゃんが無理やり……」
思わず大声で反論すると、お姉ちゃんはびっくりした感じでまゆを上げてから、またにやりと目を細めて、「またまたあ、素直じゃないなあもう」とボクの頬をつっついてくる。ボクはむっとしてそっぽを向くと、「だって、本当のことだもん」と言い張った。
と、お姉ちゃんは急に真面目な声になって、
「ふうん。じゃあさ、もしおねしょの原因が、こうやってオムツを履いたり赤ちゃんのまねをしてるせいだって言ったら、どうする?」
「えっ……?」
ボクはどきっとしてお姉ちゃんの顔を見上げた。お姉ちゃんはそれまでとは全然違う、「素敵なお姉さん」の顔でにっこりとボクにほほえみかけてくる。その笑顔はまるでボクの頭の中を見透かしているようで、ボクは慌てて目をそらすと、お姉ちゃんに言い返した。
「そ、そんなわけないでしょ。だって、おねしょとちっとも関係ないし」
「本当に、関係ないと思う?」お姉ちゃんはボクに問いかける、「実はむぅちゃんも、どうして自分がおねしょなんてしちゃったのか、なんとなくわかってるんじゃない?」
その言葉に、ボクの心臓はもう一度大きく跳ね上がる。
お姉ちゃんの言うとおりだった。本当はボクも、最初からそのことが心配だった。赤ちゃんでもないのにオムツを履いたりとか、オムツにおもらししたりとか、そんな変なことばかりしているせいで、体のどこかがおかしくなっちゃって、それで突然おねしょなんかしちゃったんじゃないかって。ただその予想が当たっているのが怖くて、なかなかお姉ちゃんにきけないでいただけ。
「で、でも、まさか本当にそんなこと……」
「うん? 納得できないような顔だね。だからさ、さっきも言ったじゃない。むぅちゃんのハートはもうすっかり赤ちゃんだから、それにつられてむぅちゃんの体も、無意識に赤ちゃんに戻っちゃってるんだよ。今日のおねしょはそれが原因ってわけ」
「ボクの体が、赤ちゃんに……」
頭の中は不安とあせりでいっぱいで、ボクは呆然とそうつぶやいてから、はっとしてお姉ちゃんに尋ねた、
「じゃ、じゃあボク、このままオムツを履いたりしてたら−−」
「そうだねえ、これからもまた、おねしょしちゃうだろうね。おねしょの回数もだんだん増えていって、そのうち起きてる間もおもらしするようになっちゃうかも。あ、そしたら学校にもオムツ履いてかなきゃだね。もしかしたらクラスの子にオムツのことばれちゃったりして」
口元に指を当てて天井を見上げながら、お姉ちゃんは平気な顔で言う。それを聞いているうちに、ボクはどんどん血の気が引いてしまって、もう声を出すこともできなくなってしまっていた。
「ばれた相手が幼馴染の女の子だったりして、そこからむぅちゃんをめぐる倒錯した三角関係に発展……いやいやここはわたしとその子の2人がかりでむぅちゃんをきゃっきゃうふふ−−って、あれ? どしたのむぅちゃん、なんだか泣きそうな顔しちゃって」
ボクのすぐ視線の先で、お姉ちゃんはいつもどおりの笑顔を浮かべている。その笑顔にすがりつくように、ボクは言った、
「ねえ、今のも、うそ、だよね?」
「んー、むぅちゃんにはこの目がうそをついている目に見えるのかな?」
お姉ちゃんは真剣な表情だけど、今まで何度もこの表情にだまされてきたから全然信用できない。でも今日にかぎっては、ボクはうそだと確信することもできなかった。
ボクがとまどっていると、お姉ちゃんはボクを捕まえていた手を離して、
「ま、それはそれとして。そろそろお待ちかね、お着替えの時間と−−」
「あ、あのっ!」ボクはとっさにお姉ちゃんの手を逃れて言った、「ごめんなさい。ボク、急に宿題があるのを思い出しちゃって……だから、今日はもう帰ろうかな、って」
そのとたん、お姉ちゃんが盛大に不満の声をあげた、
「え−−−−っ、なんでよう。だいじょうぶよ宿題なんか1回ぐらい忘れたって」
「で、でも、忘れたらたいへんな宿題で……」
「そんなこと言わないでさあ。学校の宿題より、お姉さんともっとオトナな勉強したくなぁい?」
「えと、また今度に−−」
「即答!?」
お姉ちゃんはなぜかショックを受けた様子で、「ううう、お姉ちゃんの乙女のプライドは粉々に砕け散ってしまったことよ」と泣き崩れるポーズを取った。なんだかすごく悪いことをしてしまった気分になったけれど、ここで近付くとまたお姉ちゃんに捕まえられそうなので、ボクは少し離れた場所から、「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と謝った。
そのうちにお姉ちゃんも納得してくれて、ボクを玄関まで見送ってくれた。
「そういえば、今日は紙オムツ持って帰らないで平気?」
「あ、はい、あの、この前たくさんもらったから……」
実は残りわずかだったけれど、ボクはそう答えた。お姉ちゃんはボクのうそには気付かずに、「そうだっけ?」と首をかしげると、
「まあいいや、それじゃあまた来てね、むぅちゃん」
と言った。ボクはちょっと返事に迷ってから、「はい」と答えて玄関のドアを閉めた。
いつもならお姉ちゃんの部屋を出ると、外はもう日が暮れているのに、今日はまだ夕焼け空がだいぶ残っていた。見慣れた帰り道、自転車をこぎながら、ボクは逃げ出すように帰ってきてしまったことを、少しだけ後悔していた。でも、きっとこれでよかったんだ。
信号待ちで自転車を止める。ブレーキをかけたひょうしに、サドルがズボンの前にぶつかって、普通の下着とは違う感触が肌に伝わってきた。ボクは地面に足をついて、紙オムツを履いた部分を見下ろした。
ボクがおねしょをしちゃったのは、オムツを履いたり赤ちゃんのまねをしたりしているせい。ボクの心といっしょに、体まで赤ちゃんに戻っちゃっているせい。お姉ちゃんの話をまだ信じきれない気持ちと、やっぱりそうだったんだという気持ちが、ボクの胸の中でぐるぐる回っていた。ただはっきりとわかっているのは、このままこんなことを続けていてはだめだ、ということ。
最近はずっと、オムツにおもらしをするのも、そのオムツをお姉ちゃんに替えてもらうのも、赤ちゃんみたいにお姉ちゃんに甘えるのも、全然平気になっていた。おかしいとか恥ずかしいとか、ほとんど感じなくなっていた。だけどそれはみんな絶対におかしいことで、いけないことなんだ。もしかしたらそんないけないことばかりしていたから、神様の罰が当たって、それでおねしょなんてしちゃったのかもしれない。そう思った。
−−やっぱり、もうオムツなんか履くのはやめた方がいいのかな……
なやんでいたら、いつの間にか信号は青に変わっていた。おしっこが出そうだったけれど、今日は家までがまんすることにして、ボクは自転車のペダルをけった。
玄関でただいまをすると、「にいに!」と声がして、居間からモモが飛び出してきた。モモは胸の前になにかを持って、とことこと玄関まで歩いてくる。モモの歩き方は、最近だいぶしっかりしてきた。ちょっと目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうと、母さんがよく心配している。
「モモ、ただいま。なに持ってるの、それ」
「んっ!」
モモは胸に抱えていたそれを、自慢げにボクの前にかかげてみせる。モモが持っていたのは、大きなウサギのアップリケがついた、ピンク色のパンツだった。だけどそのパンツは、よく見るとなんだかやけに分厚くて、形も普通の下着よりオムツに似ているような気がした。
「これって、もしかして……」
ボクが吸い寄せられるように手を伸ばすと、モモはすばやくパンツを背中に隠してしまった。どうやら見せるだけで渡す気はないらしい。
「あらあら、にいにに見せてあげないの? よっぽどお気に入りみたいねえ」
にこにこと笑いながら、エプロン姿の母さんがやってきた。モモは母さんの言葉を聞いているのかいないのか、パンツを隠したまま部屋に戻っていってしまう。その姿をぽかん、と見送ってから、ボクは母さんに尋ねた、
「モモが持ってたのって、トレーニングパンツ?」
「そうよぅ、かわいいでしょう。あのパンツ、今日のお昼に届いたんだけど、なんだかすごく気に入っちゃったみたいで、ずっと手離そうとしないのよ」
ふうんと相づちを打ったあとで、ボクは気付いた。あれ、トレーニングパンツを買ったってことは、もしかして−−
「じゃあモモはもう、オムツは履かないの?」
「いいえ、しばらくはまだオムツのままよ。でも、モモも最近はおしっこが出たことを自分で教えてくれるようになってきたから、そろそろトイレトレーニングを始めてもいいかと思って」
母さんは言った。そのとたん、ボクは胸の中がもやもやするのを感じた。
なんだろう、この気持ち。モモがトイレトレーニングを始めてオムツが外れたって、そんなのボクには全然関係がないのに。そのはずなのに、やっぱり気になった。モモはもうすぐオムツを卒業するのに、お兄ちゃんのボクはまだオムツを履いて、おまけにおねしょまでしちゃってるなんて……
ボクはそれとなく、母さんに言ってみた。
「ねえ、モモにはまだトイレトレーニングなんて早すぎるんじゃないかな」
「あら、そんなことはないわ。睦月も今のモモぐらいのころに始めて、3歳になる前にはオムツを卒業してたのよ」
その言葉に、ボクはぎこちなく「そ、そうなんだ」と返事をした。オムツを履いたままのおしりにそっと触れる。本当はまだオムツを履いてるだなんて、絶対に言えない。
そこへ再びモモがやってきた。そしてまた別のトレーニングパンツを、笑顔でボクに見せびらかす。今度のパンツはクリーム色にヒヨコのアップリケ。卵のカラのパンツを履いたヒヨコの絵がすごくかわいくて、ふわふわした感じの生地も肌触りがよさそう。
そのパンツを見つめていたら、ついさっきまで重かったボクの胸は、いつの間にかどきどき鳴り始めていた。こくん、とのどの奥で音が鳴る。頭の中では、無意識のうちにそのパンツを履いたときの感触や温かさを想像している。
さわってみたいな、とボクは思った。履いてみたいな、と思った。どうしよう。これって、前にモモの紙オムツを見ていたときと同じだ。そんなのいけないことだって、わかってるのに。
あとでこっそり、履けるか試してみようかな。それともお姉ちゃんにお願いしたら、これと同じようなトレーニングパンツを作ってくれたりとか−−
「あらあら睦月、指なんかしゃぶっちゃだめじゃない。モモのくせがうつっちゃったの?」
「えっ、あ、あれっ?」
母さんの声が聞こえた瞬間、ボクは自分の人差し指が口の中にあることに気が付いた。ボクはぱっと口から指を離して、その手を背中に隠した。モモが不思議そうな目でボクのことを見上げていた。かあっ、と顔が熱くなるのを感じながら、ボクは謝った。
「ご、ごめんなさい、ママ……」
うっかり口に出してしまってから、ボクは慌てて口をふさぐ。だけどもう遅かった。母さんはくすくすと笑って、
「ママなんて呼ばれたの、幼稚園のころ以来ね。本当にどうしちゃったの?」
「いや、あの、今のはつい……」
ボクがしどろもどろになっていると、母さんはボクの髪をやさしくなでて言った。
「しっかりしてちょうだい、お兄ちゃん」
「ちょーあいっ」
モモにまで注意されて、ボクは「あ、う、うん、ごめん」と下を向いた。
「さあ、モモちゃんもいい加減パンツを返してください。ちゃんとタンスにしまわなきゃ」
母さんが言った。だけどモモは「やっ」と頑固に言い張って逃げていってしまう。母さんが「あらあら」と苦笑いをして、モモを追いかけていく。
二人が居間に入っていったあとも、ボクは少しの間その場を動けないでいた。右手の人差し指をぼんやりと見つめる。無意識にしゃぶってしまっていた指は、まだちょっと湿っていた。
なんで、こんなことしちゃったんだろう。まるで赤ちゃんみたいに指をくわえちゃったり、赤ちゃんのときの言葉を使っちゃったり。
そこで、お姉ちゃんの声がよみがえった。
(だからさ、さっきも言ったじゃない。むぅちゃんのハートはもうすっかり赤ちゃんだから、それにつられてむぅちゃんの体も、無意識に赤ちゃんに戻っちゃってるんだよ)
心臓がきゅっとしめつけられる感じがした。さっきの、お姉ちゃんの話。あの話は本当に、本当だったのかもしれない。
ボクは急にズボンの中の感触が気になりだした。このままオムツを履き続けていたら、お姉ちゃんが言ったとおり、たいへんなことになってしまいそうな気がしてきた。今すぐオムツを履くのをやめなくちゃいけないような気がしてきた。
玄関でぐずぐずしていると、母さんが居間から顔を出して言った。
「あら睦月、まだそんなところにいたの? 最近風邪が流行ってるんだから、早く手を洗ってうがいをなさい」
ボクは「う、うん」と返事をして、だけどすぐにでもパンツに履き替えなくちゃいけないような気がして、洗面所の前に早足で自分の部屋に向かった。
お風呂からあがって、明日の学校の準備をすませ、そろそろ電気を消そうという時間。ボクは裸のおしりをぺったりとベッドの上に乗せて、手に持った紙オムツのプーさんの顔とにらめっこをしていた。
もうこれ以上、オムツを履くのはやめなくちゃ。そう心に決めたのは、まだほんの何時間か前。にもかかわらず、ボクの決心は早くもぐらぐらにゆれていた。
お姉ちゃんは、ボクがおねしょをしちゃったのは、オムツを履いたり赤ちゃんのまねをしたりしているせいだと言っていた。あのあと母さんも、トイレトレーニングではオムツを履かないことに慣れるのが大事だと教えてくれた。いつまでもオムツを履いていると、安心してしまうせいか、なかなかおねしょやおもらしが治らないらしい。だったら当然、ボクもオムツなんか履いてちゃいけないと思う。ただ、それはわかってるんだけど−−
ボクはベッドの上に視線を落とした。そこにはさっきお風呂から出たときに履き替えたパンツが置いてある。ゴムの部分にちょっと絵が描いてあるだけの、薄い布のパンツ。もしこのパンツでおねしょなんかしちゃったら、パジャマも布団も間違いなくびしょびしょだ。
ボクはまた、紙オムツの方へ視線を戻す。
−−やっぱりもう一晩だけ、オムツを履いて寝ようかな……
パジャマの上しか着ないで長い間迷っていたら、いい加減寒くて風邪をひきそうだった。ボクは結局自分で決めるのはあきらめて、紙オムツをパンツのとなりに並べて置くと、
「どちらにしようかな天の神様の言うとお、りっ」
ボクの指は、紙オムツのプーさんの顔を指して止まった。それを確認して、ボクはひとつ息をつく。
別に、どっちから始めたらどっちで止まるとか、計算してたわけじゃないんだから。自分に言い聞かせて、ボクは紙オムツを手に取る。ふかふかな手ざわり。ボクはベッドの上に伸ばした両足に、オムツを通していく。足口の薄いひらひらがこすれて、ちょっとだけくすぐったい。
おへその下まで紙オムツを引っ張り上げると、さっきパンツに履き替えたときとは違う、ほっとした気持ちになった。体育座りの格好で、ボクはおしりからちんちんにかけての、もこもこにふくらんだ部分を手のひらでなでた。
(きもちいい……)
はふぅ、と息を吐いて、そこでボクはぶるぶると首を振った。
違う違う。これはボクが履きたくて履いてるわけじゃなくて、ただどちらにしようかなで決まったから履いてるだけ。本当は、もうオムツなんか履いちゃいけないって、わかってるんだから。今夜おねしょしなかったら、もう絶対履かないんだから。
まるで言い訳みたいなせりふをくり返していたら、なんだか自分がすごく恥ずかしいことをしているような気分になった。こんな気分になるのは、オムツを履き始めたころ以来だった。これ以上どきどきして眠れなくなる前に、ボクは急いでパジャマのズボンをはくと、電気を消して布団にもぐりこんだ。
「−−睦月、おい睦月ってば! いい加減起きないと次の体育遅れるぞ」
耳もとで聞こえた声にびっくりして飛び起きると、目の前にあっくんの顔があった。
「えっ、あれ、あっくん……?」
「あれじゃないだろ。ほら、早く着替えて校庭に行こうぜ」
「あ、う、うん」
時計を見るとそろそろ昼休みが終わる時間だった。あっくんもほかの人たちも、みんなもう体育着に着替えている。ボクは急いで机の横にぶら下げた袋から体育着を引っ張り出し、着ていたズボンを脱ぎ始めた。そのときだった。
あっくんが「ん?」と首をかしげて、ボクの下着を指差した。
「なあ睦月、なんでおまえ、女のパンツなんか履いてんだ?」
えっ、と声をあげて視線を下に向け、そこでボクは全身が凍りつくのを感じた。脱ぎかけのズボンの下にボクが履いていたのは、ゆうべ寝る前に履き替えたピンク色の紙オムツだった。
な、なんで? なんでボクオムツなんか履いてるの? まさか今朝パンツに履き替えるのを忘れて、そのまま昼休みが終わるまでオムツを履いているのに気付かなかったなんて、まさかそんなこと−−
「ていうかおまえそれ、もしかしてオムツ……」
あっくんのとまどった声にはっとして、ボクは大急ぎでオムツを隠そうとする。だけどそのとたん、ズボンが足に引っかかって、ボクは前のめりに倒れてしまった。きゃっ、と悲鳴をあげて床に手をつき、振り返ったボクはさらにぎょっとした。紙オムツのおしりが丸見えになっている。しかもそれを見たクラスのみんながざわざわと集まってきて、ボクの周りに円を作り始めていた。
「わーっ、ホントだ! ホントにオムツ履いてるぅ」
「や、だめ、見ちゃだめっ」
ボクはまたあせって立ち上がろうとして今度はしりもちをつき、上着のすそを引っ張ってなんとかオムツを隠した。だけどもう全然遅すぎる。
「隠したって無駄だっつうの。ほら、ちゃんと見せろよ」
「ねえねえ、なんでオムツ履いてるの? 今までもずっと学校に履いてきてたの?」
「ちが、これは、そうじゃなくて……」
「それよりおまえ、なんで女用のやつ履いてるんだよ。もしかしてそういう趣味?」
「そういう趣味って、つまり変態じゃん変態」
くすくすという笑い声と、内緒話のひそひそ声。みんなにやにやした顔でボクを見つめている。その顔を見回しているうちに涙が溢れそうになってしまって、ボクはうつむいてぐっとくちびるをかんだ。だけど最初の涙がこぼれ出す前に、ざわめきの向こうから声が聞こえた。
「いい加減にしなさいよねあんたたち! ほらどいて、どきなさい!」
再び顔を上げると、正面の人たちを押しのけてショートカットの女の子がこっちにやって来るところだった。おとなりのサキちゃんだ。サキちゃんはボクに向かって「あんたもすぐ泣いてるんじゃないの」と恐い顔をしてみせると、みんなの視線からボクを守るように仁王立ちして、
「こんなふうにみんなで大騒ぎしたら睦月がかわいそうでしょ! 睦月はまだおもらししちゃうんだから、オムツ履いてたってしょうがないじゃない!」
「さ、サキちゃん!」
ボクは慌ててサキちゃんの服を引っ張った。けれどサキちゃんはまるで当然のことを言ったみたいに、ボクを振り返ってまゆをひそめると、
「なによ、この状況でこれ以上隠せるわけないでしょ」
「隠すとかじゃなくて、ボクはそんな……」
そこまで言いかけたところで、みんなの声が耳に入ってくる。「わあ、やっぱりおもらししちゃうんだあ」「4年生でおもらしとかありえねー」「ねえ、今日はもうおもらしした? もしかして今もオムツぬれちゃってるんじゃない?」
周りの声をかき消すように、ボクは精一杯叫んだ、
「ちがうよ! ボクはおもらしなんか−−−−え……?」
だけどボクの声は、最後まで続かなかった。言葉の途中でボクは固まってしまった。
……あれ、どうして? どうして勝手に、おしっこが出ちゃってるの?
「うそっ、うそうそ……」
ちんちんにきゅっと力をこめておしっこを止めようとしても、なぜか力が入らなかった。ボクは紙オムツの上からちんちんをぎゅっと押さえつけてうずくまった。それでもおもらしは止まらない。まるでちんちんが壊れちゃったみたいに、おしっこが溢れ続けている。吸収しきれなかったおしっこが、おしりの方へ流れていくのがわかった。ボクの履いた紙オムツは、もう限界までふくらんでいた。
「……睦月、もしかしてもらしちゃった?」
サキちゃんが振り返って尋ねた。ボクは力いっぱい首を横に振る。だけどサキちゃんはおかまいなしにボクの前にしゃがむと、オムツを押さえていたボクの手を無理やりはがした。サキちゃんはもこもこにふくらんだオムツを見ると、
「やっぱり。おしっこ出たらちゃんとそう言わなきゃだめじゃない」
まるで赤ちゃんを相手にするみたいに、サキちゃんは言った。ボクはもう目の前がにじんで、サキちゃんの顔もよく見えなくなってしまった。
そのとき、教室の入り口の方で聞きなれた声がした、
「おやあ、なにしてるのかな、みんなで集まって」
「あ、先生。睦月がおもらししちゃってさあ」
男子のだれかが答えた。その言葉に、ボクの瞳はますます涙でいっぱいになる。けれどその涙も、人の輪をかきわけて現れた相手の顔を見たら飛んでいってしまった。
「やあむぅちゃん、またおもらししちゃったんだって? かぶれないうちにオムツ替えしなくちゃね」
「お、お姉ちゃん!?」
驚きのあまり声がひっくり返ってしまった。なんでお姉ちゃんが学校に? するとサキちゃんが不思議な顔でボクを見て、
「なに言ってるのよ、保健の先生じゃない」
ボクは言葉を失って、お姉ちゃんの姿を見つめた。たしかに目の前のお姉ちゃんはお医者さんの白衣を着ているけど、保健室の先生は恐い感じのおばさんだったはずだ。ボクが混乱していると、お姉ちゃんはボクの前にひざをついて、おしっこでふくらんだオムツの前を触った。
「ひゃっ……」
「うんうん、たくさんおしっこ出たね。えらいねえ、むぅちゃん」
「や、やめてよお姉ちゃん、みんなが見てるよ……」
お姉ちゃんの手を振り払おうとする。だけど、なぜか体が自由に動かない。体の動かし方がわからなくなっちゃったような感じ。お姉ちゃんがもう片方の手でボクの頭をなでると、みんなのざわめきとくすくす笑いが大きくなった。ボクはもう真っ赤になって下を向くことしかできなかった。
と、ふいにお姉ちゃんがみんなの方を振り返って言った、
「そうだ。せっかくの機会だから、みんなで赤ちゃんのオムツ替えのしかたを勉強しようか」
「えっ、な、なにを−−」
ボクの声は周りのみんなの「はーい!」という大合唱に飲みこまれてしまった。ボクは慌てて顔を上げる。すると−−
そこはもう、さっきまでの教室じゃなかった。ボクの瞳に映ったのは、かわいい動物の絵が描かれたクリーム色の壁と、赤ちゃんの部屋によくある、にぎやかな部品がたくさんついたくるくる回る飾り。そしてボクは気が付くと、ふかふかなベッドの上に寝かされていた。それも周りに柵のある赤ちゃん用のベッド。そのベッドを取り囲むようにして、お姉ちゃんとクラスのみんながボクのことをのぞきこんでいた。中にはボクに向かってガラガラを振っている女の子もいる。
なにがなんだかわけがわからなくて、ボクは悲鳴をあげそうになった。そこで初めて、ボクは自分がおしゃぶりをくわえていることに気付いた。しかもそれだけじゃなかった。自分の体を見下ろすと、ボクが着ているのは体全部を覆う赤ちゃん服だった。靴下までいっしょになった、冬用のすごくもこもこした服。先月のボクの誕生日に、お姉ちゃんが作ってくれた服だ。その服の上によだれかけまでして、ボクは完璧に赤ちゃんの格好をしていた。
ボクは頭が真っ白になってしまった。そこへ、お姉ちゃんの声、
「はあい、それじゃあ赤ちゃんのオムツ替えを実際にやってみたいひとー」
とたんにみんなが争うように手を挙げる。ちょっと待って、これってまさか、みんなでボクのオムツ替えをするってこと!?
大慌てで起き上がって逃げようとしたけれど、今度も体に力が入らなかった。おしゃぶりが邪魔でしゃべることもできない。そのうちに、お姉ちゃんがだれかを指差して言った、
「では最初は柊サキちゃん。やり方教えてあげるから、こっちに回ってきて」
サキちゃんの名前を聞いたとたん、ボクの心臓は大きく跳ね上がった。サキちゃんが「はいっ」元気に返事をして、お姉ちゃんのとなりにやってくる。おしゃぶりを外して「やめて」と叫びたかったけれど、どうしてもおしゃぶりが外れてくれない。ボクは「うー、うー」とうめきながら、涙目でサキちゃんの顔を見上げて、ふるふると首を振った。だけどサキちゃんはそれには気付かずに、真剣にお姉ちゃんの話をきいている。
「はい、みんなよく見ててねー。まずはオムツが替えやすいように、赤ちゃん服の股のボタンを開きます。サキちゃん、やってみて」
サキちゃんがうなずいて、ボクの服に手を伸ばす。パチン、パチン、という音が聞こえて、足のつけ根に少し冷たい空気が触れた。視線を落とすと、おもらしでもこもこになった紙オムツが丸出しになっているのが見えた。そのオムツを、クラスのみんなは興味津々といったふうに見つめている。ボクはもう恥ずかしすぎて死んでしまいそうだった。
「さあ、続いてぬれたオムツを外してあげましょう。紙オムツの脇の部分が破れるようになってるから、簡単に外せるよん」
お姉ちゃんの言葉に従って、サキちゃんが紙オムツの脇を破っていく。ぴりぴりという音に続いて、オムツの前が開かれた。おもらしのオムツの中で蒸れた肌にひんやりとした空気が当たって、ボクは思わず「ふわあぁ」と声をあげてしまった。
「うわあ、すごいいっぱい出てるぅ」
「おしりの方までまっ黄色だあ」

女の子たちの歓声が聞こえる。それといっしょに、男の子のからかうような笑い声も。ボクは耳をふさぐこともできなくて、かわりにぎゅっと目をつぶった。
「先生、新しいオムツは?」サキちゃんの声が言った。
「あ、ちょっと待って。新しいオムツに替えてあげる前に−−はいこれ」
お姉ちゃんの声のあと、なにかごそごそと音がしたかと思うと、突然おしりにひやっとしたものが触れて、ボクは小さく悲鳴をあげた。びっくりして目を開けると、サキちゃんがぼ赤ちゃん用のおしりふきで、ボクの体のおしっこでぬれたところをふいていた。
「そうそう、足のつけ根からちんちんの先っぽまで、よーくふいてあげてね」
お姉ちゃんの言葉に、サキちゃんはちょっと頬を赤くしながら、ボクのちんちんをふき始める。ボクはひときわ大きなうめき声で抗議した。でもその声もサキちゃんには届かない。サキちゃんがちんちんをふくたびに、またおしっこが出ちゃいそうな感じがして、ボクは必死でそれをがまんした。ちんちんが勝手にひくひくと動いて、それをみんなに見られているかと思うと、頭の中が熱くなりすぎて、今にも溶けちゃいそうな気がした。
「うん、上手上手。さ、それじゃあ新しいオムツを着けてあげようか。ねんねしたまんまでもオムツ替えがしやすいように、今度はテープタイプの紙オムツにしとこうね」
サキちゃんがお姉ちゃんに言われたとおりに、ボクのおしりを持ち上げて、その下に新しい紙オムツを広げる。やっぱり体は全然動いてくれなくて、ボクはもう本当の赤ちゃんみたいにされるがままの状態だった。
慣れない手つきでオムツのテープを止めながら、サキちゃんがボクに向かってにっこりと笑いかける。そのとたん、ぽろぽろと涙がこぼれだして、ボクはまた固く目を閉じた。そのうちに赤ちゃん服の股のボタンが閉められていく音が聞こえて、最後に「はい、よくできました」とお姉ちゃんの声がする。
やっと終わった。ボクが涙でいっぱいの瞳を開くと、お姉ちゃんとサキちゃんとは反対側のベッドの柵から、モモが顔を出していた。
(モモ! なんで!?)
声を出せずに混乱していると、モモは夕方に見せてくれたヒヨコの絵のトレーニングパンツを頭の上にかかげて、「にいに、これ!」と言った。ボクに渡してくれるつもりらしい。と、お姉ちゃんがモモに向かって、
「ごめんねモモちゃん。むぅちゃんはトイレでおしっこできない赤ちゃんだから、まだトレーニングパンツは履けないんだよ」
それを聞いたモモは、きょとんとした顔でボクを見つめて、
「にいに、あかちゃん?」
「そうよう。それに比べて、モモちゃんはオムツを卒業できてえらいねえ」
その声を聞いていたら、今までで一番恥ずかしくて悲しくなってしまって、ボクはとうとう声をあげて泣き出してしまった。そのひょうしにおしゃぶりが転がり落ちて、口が自由になったけれど、そこから出るのは「あー」とか「うー」とかいう赤ちゃん言葉ばかりだった。きちんとしゃべろうとしても、しゃべり方を忘れてしまったみたいに言葉が出てこなかった。
やっぱり、お姉ちゃんの言ったとおりだったんだ。ボクはそう思った。オムツを履いたり、赤ちゃんのまねをしてばかりいたから、ボクは本当の赤ちゃんになっちゃったんだ。こんなことになるなら、オムツなんか最初から履かなきゃよかった。
「先生、赤ちゃん泣いてるよぉ。またおもらししちゃったんじゃない?」
「ちがうよ、きっとおっぱいがほしいんだって」
みんなの声がずっと遠くで聞こえた。ボクは今では本当の赤ちゃんみたいに大声で泣いていた。涙といっしょによだれまでたれていた。お姉ちゃんがよだれかけで、やさしくそれをぬぐってくれる。
そのうちに涙でぐしゃぐしゃになった目の前がどろどろに溶け出して、壁の色と同じクリーム色に染まり、ボクの体も頭の中も全部、その色の中に溶けていくような感じがした。それからふいに体を引っ張られるような感覚があって、突然すべてが真っ暗になった。
自分のあげた悲鳴で目を覚ますと、ボクはベッドの上に起き上がって、毛布を力いっぱい握りしめていた。体中汗びっしょりで、心臓もおかしくなるくらい鳴っていた。息をするたびにのどの奥がすごく熱くて、目の周りがちょっとだけぬれているのがわかった。
しばらくの間、ボクは動くこともできずに、短距離走のあとみたいな呼吸をくり返していた。そのうちに暗闇に目が慣れてきて、壁にかけた時計の針が4時を指しているのが見えたところでようやく、ボクは今のが全部夢だったことに気が付いた。
ボクは胸をなで下ろしかけ、直後にひやっとした。おそるおそる毛布をめくり、オムツの中に手を差しこんでみる。
オムツは−−ぬれていなかった。
今度こそ、ボクはほっと息を吐いた。それからズボンとオムツを乱暴に脱ぎ捨てると、ベッドの下から寝る前に替えたパンツを手探りでつかみ出してそれに履き替えた。
もう、やめなきゃ。寝る前よりもずっと強い気持ちで、ボクは決意した。さっきの夢が現実になる前に、全部やめなきゃ。オムツを履くのも、赤ちゃんのまねも。そうしないとボクは、本当に赤ちゃんに戻っちゃう。
ボクは脱ぎ捨てたオムツをもとの袋に戻し、袋の口を固くしばった。
そうだ、きっと近くにオムツがあるから、つい履きたくなっちゃうんだ。だったら、オムツを捨ててしまえばいい。明日はちょうど金曜日、燃えるゴミの日だ。今持ってるオムツを全部捨てて、もうお姉ちゃんの家に行かないようにすれば、それできっと、ボクはオムツをやめられる。
ボクは自分に向かってうなずいた。そうしていると、だんだん心臓の音が落ち着いてきた。
ボクは念のために一度トイレに行ってから、枕に向かって「どうか、おねしょしませんように」とお願いして横になった。だけど結局ボクはそのあと、ほとんど眠ることができなかった。
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3はとっても長編なので、前編・後編に分けました。
次回もムツむつなので期待しててネw
イラストは過去最大人数。所要時間も過去最長かもw
今回もいい作品でした。また、早く次回作がみたいです。
すてきな挿絵をありがとうございました。
モモもサキちゃんもみんなかわいくて感激です。