だけど、問題はそのあとだった。オムツを捨てたすぐ後は、なんだかすごくすっきりした気分だったのに、学校に着くころになると、ボクはもうはっきりと、オムツを捨てたことを後悔し始めていた。
どうして捨てちゃったりしたんだろう。なにも捨てることなんてなかったんだ。あのオムツはお姉ちゃんがボクのために、せっかく買ってくれたのに。履くのはだめでも、オムツを見たりさわったりしているだけでも、ボクはよかったのに。だいたい、お姉ちゃんの話だってうそだったかもしれないんだ。それをちょっと変な夢を見たからってオムツを全部捨てちゃうなんて、本当にどうかしてた。
時計の針が進むたびに、後悔がどんどんふくらんでいくような感じがした。授業の間も頭の中では、朝捨てたオムツの柄が浮かんでは消えて、先生の話にもさっぱり集中できなかった。何度も時計を確認しては、まだ回収されてないかも、とそわそわしたりした。病気のふりをして早退しようかとも考えたけれど、仮病がばれたらと思うと怖くて勇気が出せなかった。
そうしているうちに放課後になって、ボクは全速力で今朝のゴミ捨て場に向かった。もしかしたらゴミ収拾のひとが、うっかり持っていくのを忘れているかもしれない。そんなことを考えた。だけどそんな都合のいいことが起こるはずもなくて、息を切らしてたどりついてみると、ゴミ捨て場はとっくに空っぽになっていた。
どんよりとした気持ちで、ボクは家に帰った。玄関の前で大きなため息をつき、暗い声で「ただいま」とドアを開ける。すると、中から予想外の声が返ってきた。
「あ、むぅちゃんおかえり。ケーキ買ってきたから、いっしょに食べよ」
見ればお姉ちゃんが居間から顔を出して、満面の笑みを浮かべていた。
早々に自分の部屋に引き上げて勉強をするふりをしていたら、少ししてドアがノックされた。ボクが返事をしないでいると、静かにドアが開く音がして、やけにひかえめな感じのお姉ちゃんの声が聞こえた。
「むぅちゃん、なんか怒っちゃってる?」
「べ、別に、怒ってなんかないです」
机の方を向いたままでそう答えながら、ボクは迷っていた。どうしよう、オムツを全部捨てちゃったことを正直に白状して、お姉ちゃんに新しいオムツをもらおうかな。それとも、やっぱりこのままオムツを履くのはやめた方がいいのかな。
ぐるぐるとなやんでいたら、お姉ちゃんがしゅんとした声で続けた。
「ううん、絶対怒ってる。だってむぅちゃん、昨日も急に帰っちゃったし、それでご機嫌直してもらおうと思ってケーキ買ってきたんだけど……もしかしてむぅちゃん、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃった?」
「そっ、そんなこと−−」
ボクは急いで振り返り、そして「あれ?」と首をかしげた。振り向いた先に、お姉ちゃんの姿はなかった。もしかして帰っちゃったのかも。心配になって立ち上がろうとした瞬間、背中にざわっ、と寒気が走った。同時に耳もとで「スキありーっ」と上機嫌な声。振り向きかけたボクの体を、音もなく背後に移動していたお姉ちゃんの腕ががしっと捕まえた。それからお姉ちゃんは、流れるような動作でもう片方の手をボクのズボンの中にするりとすべりこませる。
「きゃっ!」
「おや、今日はオムツ履いてないや。ねえ、なんで?」
パンツの上からボクのちんちんをむにむにといじって、お姉ちゃんが尋ねてくる。
ここで大騒ぎをしたら、お姉ちゃんは絶対セクハラをやめてくれない。いい加減そのくらいはわかってきたから、ボクは変な声が出そうになるのを必死でがまんして、「だ、だからっ、ボクもう、オムツはやめることにしたんです!」と宣言した。口に出してしまってから、言っちゃった、とボクは思った。これでもう、「やっぱりオムツちょうだい」なんて言うわけにはいかない。
するとお姉ちゃんは「ほほう」と感心したような声をもらしてボクから離れた。ボクはほっと息をついて机に向き直ると、椅子に手をついてズボンの前をガードした。
横目で様子をうかがうと、お姉ちゃんは腰をかがめてベッドの下をのぞきこんでいた。
「あ、ベッドの下のオムツもなくなってる。これはなかなか本気のようですね睦月さん」
お姉ちゃんがこっちを振り返ったので、ボクは慌てて前を向いた。「ふーん」と楽しそうなお姉ちゃんの声。顔を見なくてもにやにやしているのがわかる。
「そうだよねえ、これ以上オムツを履いてて、おねしょがひどくなっちゃったら大変だもんねえ。それともあれかな、モモちゃんもトイレトレーニングを始めるっていうし、お兄ちゃんがいつまでもオムツが取れないっていうのが気になるのかな」
ぴったり理由を言い当てられたのがおもしろくなくて、ボクは返事をしなかった。すると突然お姉ちゃんが後ろから抱きついてきて、ボクは危うく椅子ごと倒れそうになりながら、「わっ」と声をあげた。お姉ちゃんはくちびるをボクの耳にくっつくほど近づけて言う。
「でもねえむぅちゃん、無理は体によくないよ。かの賢狼も『禁欲がなにかを生み出すということもない』って言ってるし」
まるで最初から、ボクがオムツをやめるなんて無理と確信しているような感じ。そう言われると腹が立って、ボクは頬をふくらませて黙っていた。お姉ちゃんの息が耳もとにかかって緊張した。そのまま10秒ぐらいの間があって、お姉ちゃんはぱっとボクの体を離した。
「ま、そういうことなら止めはしないけどね。でももしオムツが履きたくなったら、いつでもわたしのところへ来なよ。むぅちゃんが素直に負けを認めて、それでもってお姉ちゃんにちゅうしてくれたら、すぐにまたオムツをあげるから」
「ちゅ、ちゅうって−−」ボクは思わずお姉ちゃんを振り返って言った、「そんなことできないです!」
「え? なんで?」
「なんでって、だって、ちゅうなんて恥ずかしいし……」
「おっぱい吸うのは問題なくてちゅうはだめって、なかなか難解な基準をお持ちだね」
お姉ちゃんは心底不思議そうな顔で首をかしげる。ボクはこの前のことを思い出して真っ赤になりながら、さらに言った、
「そ、それに、そういうことは特別な人とじゃなきゃしちゃいけないってサキちゃんが……」
言いかけたところで、お姉ちゃんの表情がさっと変わったのに気が付いた。ボクははっとして言葉を止める。だって、お姉ちゃんのそんな顔はこれまで一度も見たことがなかったから。それはまるで、なにかに傷ついたような−−
けれどお姉ちゃんは、すぐにまたいつもの意地悪な表情に戻ると、
「んっふっふ、まあわたしは全然かまわないんだけど。むぅちゃんがファーストキスを特別な相手のためにとっておきたいなら、せいぜいがんばることだね。それじゃ、お姉ちゃんはむぅちゃんがちゅうを献上しに来てくれるのを、首を長くして待ってるよん」
やたら楽しそうな声で言うだけ言って、お姉ちゃんはさっさと部屋を出て行ってしまった。声をかけるひまさえなかった。
一人になった部屋の中で、ボクはため息をついた。最初から素直に、新しいオムツをちょうだいって、お姉ちゃんに言えばよかったのに。なんで余計な意地を張ったりしたんだろう、ボクのばか。
オムツがほしければ、お姉ちゃんにちゅうしなくちゃいけない。お姉ちゃんが変なことを言ったせいで、赤くなった顔も胸のどきどきも、なかなかもとに戻ってくれなかった。
たぶんその後のボクの様子を見ていたら、お姉ちゃんはずっとにやにやしっぱなしだったと思う。ボクはいつの間にか自分でもあきれるくらいに、オムツがなくちゃだめになってしまっていた。オムツを捨てればあきらめられるなんて、そんな簡単なはずがなかった。
ゲームをしていても漫画を読んでいてもテレビを見ていても、ボクはしょっちゅう上の空でオムツのことを考えていた。そしてそういうときはいつも、オムツの感触を思い出すみたいに、無意識にズボンの前をさわっている。一度母さんに見つかって「そんなとこいじっちゃだめよ」と注意されたけれど、やっぱり自然とそこに手が行っている。これまでも学校に行くときは普通のパンツだったのに、ズボンの布ごしにさわる下着の薄さは、なんだかとても頼りなくてピンとこない感じがした。
それだけじゃない。オムツのCMや広告の写真を、じっと眺めてしまったり、逆に変に意識して、普通に見られなくなったりした。学校が始まっても、授業中にぼんやりしていて注意されたり、図書室でオムツの写真がのっている本を探しているところを友だちに見つかって、変な顔をされたりした。
一番心配だったおねしょは、寝る前に何度もトイレに行ったりしているおかげか、あのあと一回も失敗していない。だけどオムツを履くのをやめても、赤ちゃんのまねをするくせは全然治る様子もなかった。たまにはっと気が付くと、指をくわえていたり、服のえりやそでをしゃぶっていたりする。そんなことが1日の間に何回もあって、しかも時間がたつにつれて逆にひどくなっていくような気がした。
途中から、ボクはどうして自分が無理にオムツをがまんしているのか、それさえもよくわからなくなってしまっていた。もう降参してお姉ちゃんのところに行こうと何度も考えた。だけどまだオムツをやめる宣言をしてから何日もたっていないのに、今降参したら絶対、「うんうん、やっぱりむぅちゃんはオムツがなくちゃだめな赤ちゃんだねえ」とか言われそうで、それはやっぱりくやしくて嫌だった。
けれど、そんなボクのちっぽけなやせがまんももう限界だった。
オムツをやめてから4日目の放課後。学校から帰って、母さんとモモが留守だとわかったとたん、ボクの体は自然と自分の部屋じゃなくて、居間の方へ向かっていた。居間のソファの脇には、出しっぱなしになったモモの紙オムツの袋。カバンも置かずにその前に座ると、ボクはまるでなにかに操られるようにその袋に手を突っこんで、底の方に残っていた紙オムツを取り出す。
たった何日かぶりのはずなのに、すごく懐かしいオムツの感触。袋から取り出したオムツは、いつもボクが履いているのよりだいぶ小さくて、だけどふわふわのピンク色に見慣れたイラストの描かれた、ボクのお気に入りのプーさんの紙オムツだった。
薄暗い部屋の中で、ボクは手に持ったオムツをじっと見つめた。ふかふかしたオムツの手ざわりを、両手でたしかめる。自分の息が熱くなっているのがわかった。なんだか頭の中がぼーっとしている。
ぼんやりとした頭で、ボクは最初のころにも、同じようなことをしていたのを思い出した。母さんが買い物に出かけている間に、モモの紙オムツを使って。あのときも、そう、最初はオムツの感触をたしかめて、それからこんなふうに、オムツを顔に近づけて−−
ボクはぽふっ、と、紙オムツに鼻をくっつけた。おくすりのいいにおいがする。ボクはそのまま、静かに息をする。心臓はまだうるさいくらい鳴っているのに、そうしているとすごくほっとする。ボクはそっと瞳を閉じて、オムツのやわらかさを感じる。ああ、
履きたい、なあ……
うっとりとそんなことを考えた、そのときだった。
「にいに?」
突然となりで聞こえた声に、ボクは本気で飛び上がりそうになった。反射的にオムツを隠して声の方を向くと、きょとんとした顔のモモが指をくわえてこっちを見ていた。
オムツに夢中になっていたせいで、全然気付かなかった。静まりかけた心臓が再び恐ろしい勢いで鳴り始めた。モモがボクを指差して、質問するような声を出す。
「ちち、ちがうよ! これはただっ、落ちてたから袋に戻そうと思って持ってただけで……」
しどろもどろに返事をしながら考える。なにをうろたえてるんだボクは。モモにはボクがなにをしていたかなんてわかるはずないのに。
モモはボクが隠したものに興味を持ったのか、背中に回りこんでこようとする。ボクは乱暴に隠していたオムツを袋の中に戻した。同時に部屋の入り口で母さんの声。
「あらあら睦月、電気もつけずになにやってるの?」
「う、ううん、なんでもないよ」
母さんは首をかしげて明かりをつける。よかった、母さんには見つからずにすんだ。ボクは急いで立ち上がり、それからちらっと、後ろのオムツのパッケージを振り返る。
モモのオムツなんかいじったりするんじゃなかった、とボクは後悔した。あのままずっとがまんしていれば、オムツの気持ちのいい手触りも、ふんわりしたピンク色もいいにおいも、みんな忘れられたはずなのに。だけどボクはもうこれ以上、がまんできなくなっていた。
そうだ、お姉ちゃんに降参するのがくやしいなら、自分で買いに行けばいい。すごい速さでそこまで決断して、ボクは母さんに言った、
「あの、ボク、これからちょっと遊びに行ってくるから」
「遊びに行くって、学校のカバンをしょったまま?」
母さんがさらに不思議そうな表情になる。ボクは慌ててカバンを下ろすと、ぎくしゃくした動作で自分の部屋へ逃げ帰った。
絶対母さんに怪しまれてる。だけど今はそんなことより、オムツを買いに行くことの方が大事だった。ボクは一番大きなバッグにお財布だけ入れると、今にも破裂しちゃいそうな胸の音といっしょに玄関を飛び出した。
前に初めてオムツを買いに行ったデパートは、この時間お姉ちゃんが働いているはずだから行くわけにはいかない。もう一軒、家から離れたところにある薬屋さんには、いつものオムツが置いていなかった。そんなわけでしかたなく、ボクは母さんとよく行く近所のスーパーでオムツを買うことに決めた。
まずはオムツコーナーの前を通り過ぎるふりをして、目当てのオムツの値段を確認すると、レジでもたもたしないようにぴったりのお金をお財布から出して用意した。それからお店の中をぐるぐる見回って、だれも知り合いがいないことをたしかめる。これで準備は完璧。あとはすばやくオムツを持って、レジまで行くだけ。
けれどさっきから何度も自分にそう言い聞かせているのに、ボクはなかなか行動を起こせないでいた。心を決めてオムツコーナーまで行ってみても、そのたび勇気が出せずに素通りしてお店の中を一周するだけのくり返し。お店に来てから、もう1時間近くたっているような気がする。ポケットの中で握ったままのお金が汗で湿っている。考えてみると、ボクが自分でオムツを買うのは今回が初めてだった。だから実際にオムツを買うのが、こんなに恥ずかしくて勇気がいるとは思わなかった。
お店の時計に目をやると、そろそろ6時になるところだった。早く帰らないと母さんに怒られる。ボクは何度目かの決心をして、オムツのコーナーへ向かった。さいわい近くにお客さんはいない。ボクは棚に並べられたパッケージを確認する。ビッグより大きいサイズ、26枚入り。だいじょうぶ、間違いない。
緊張のしすぎで頭がちかちかしていた。ボクはまるで奪い取るようにオムツのパッケージを棚から下ろし、両手でそれを抱きかかえるようにして、レジの方へ振り返る−−
と、すぐ目の前に見慣れた女の子の顔があった。
「なにやってるのよ睦月。こんなとこで、オムツなんか抱えて」
「さっ、サキちゃん−−−−」
思わず声が裏返った。サキちゃんは疑わしげな目つきで、ボクの顔とオムツのパッケージを交互に眺めている。ボクは完全に固まってしまっていた。頭の中で数えきれないほどの「どうしよう」が暴れまわっている。どうしよう、サキちゃんにオムツを買おうとしているところを見られちゃった。ボクがオムツを履いてることがばれちゃった。どうしよう、ボクもう恥ずかしくて学校に行けない……
今にも涙が溢れてしまいそうだった。けれどサキちゃんは、しばらくボクを見つめたあとで、はあ、とあきれたようなため息をつくと、「あんたもたいへんね」と言った。
「えっ?」
「だってそれ、モモちゃんのオムツでしょ。まったく睦月に女の子のオムツ買いに行かせるなんて、小春さんもなに考えてるんだか」
どうやらサキちゃんは、ボクが母さんに頼まれてモモのオムツを買いに来たと誤解しているらしい。幸運な勘違いに、ボクはこくこくと勢いよくうなずいて、
「そ、そうなんだよ! ボクは恥ずかしいから嫌だって言ったのに、母さんが無理やり……」
「あれ? けどそのオムツ、もしかしてサイズ間違ってない? ビッグより大きいサイズなんて、モモちゃんそんな大きいの履いてたっけ」
「わっ、あ、本当だ。間違えちゃった」
たった今気づいたふりで驚いた声をあげて、ボクはパッケージを棚に戻す。われながらものすごくぎこちない演技。それを見ていたサキちゃんが、再び不審そうな声で「なあんか、怪しいわねえ」とつぶやいた。その言葉に、ボクは小さく飛び上がる。それでも悲鳴が出そうになるのをこらえて、ボクは言った、
「あ、あ、怪しいって、なにが?」
「……もしかしてさ、そのオムツ、モモちゃんじゃなくて睦月が履くやつじゃないの? 実は睦月ってまだおねしょが治ってなかったりとか」
一瞬本気で息が止まった。だけどサキちゃんはすぐ普通の声に戻って、
「そんなに驚くことないでしょ。冗談よ、冗談。だいたい本当に睦月のなら女の子用のなんて買うわけないしね」
「そっ、そうだよ。変なこと言わないでってば」
なんとか自然なふうに返事をしながら、心の中でボクは落ちこんでいた。サキちゃんの言うとおりだった。ボクぐらいの年の子は、普通はオムツなんて履かないし、しかも女の子用のオムツなんて買ったりするわけがない。そんなのは、おかしいことなんだ。
「どしたの睦月? なんか顔色よくないみたいだけど……」
「う、ううん、なんでもないよ。−−あっ、ご、ごめん。ボク、お金家に忘れてきちゃったみたい。一回取りに戻らなきゃ……」
ボクが慌ててそう言うと、サキちゃんは「はあ?」と思いきりまゆをひそめて、
「あんたって相変わらずドジねぇ。いいわよ、あたしが貸してあげるから」
「そんな、悪いよ。だいじょうぶ、すぐ取ってくるから。あの、じゃあまた明日ね、サキちゃん」
それだけ言うと、ボクは逃げるように走り出した。後ろで「だから4年にもなってサキちゃん言うなっ」とサキちゃんの声。ボクはそのまま振り返らずに階段を降りて、お店を出たところで足を止めた。心臓が急ぎすぎで気持ち悪かった。
少しの間、自転車置き場で呼吸が落ち着くのを待った。冷静になって考えてみたら、あそこで逃げ出す必要なんて全然なかった。むしろあの場合、サキちゃんといっしょにオムツを買って、最後までおつかいのふりをしているのが一番の方法だった。だけどそんなこと、今さら気づいたところでもう遅すぎる。絶対、サキちゃんに変に思われたと思う。明日、学校で会うのが怖かった。
そのうえ家に帰って居間をのぞくと、モモのオムツの袋が片付けられていた。もしかしたら母さんに、モモのオムツをいじっていたことがばれちゃったのかもしれない。しかられるんじゃないかと思ってずっとびくびくしていたけれど、結局母さんはなにも言ってはこなかった。
食事が終わって自分の部屋に戻ると、ボクはベッドへうつぶせに倒れこんだ。母さんのことに、サキちゃんのこと。心配事ばかりで胸が重かった。どうしてこうなっちゃったんだろう、と思った。もしも時間が巻き戻せるなら、モモのオムツに手を出す前に、素直に降参してお姉ちゃんのところへ行ったのに。そこまで考えたら、自然と心が決まった。
明日、お姉ちゃんの家に行こう。もうなんてからかわれたっていい。今日みたいなことになるよりはずっとましだ。
心配事はちっとも解決していないのに、一度そう決めてしまったら、不思議と気持ちが楽になった。オムツをやめてから、なかなか寝つけない日が続いていたのに、その夜はひさしぶりにすとん、と眠ることができた。
翌日教室で会ったサキちゃんは、昨日のことについてはなにも言ってこなかった。そのことにほっとしながら、ボクは頭の中ではずっと、学校が終わったらお姉ちゃんの家に行くことばかり考えていた。そのせいで授業の内容も友だちの話もちっとも頭に入ってこなかった。
なのに放課後、期待に胸をふくらませてたどり着いたお姉ちゃんの部屋は鍵がしまっていた。開かないドアを見つめて、ボクは呆然とした。おかしい、水曜日のこの時間は家にいるはずなのに。中で寝ているのかと思って何度もチャイムを鳴らしてみたものの、結果は同じだった。
明日また来ようか。ちらっとそんなことも考えたけれど、明日までがまんできる自信がなくて、結局ボクは部屋の前でお姉ちゃんを待つことにした。もしかしたら、ちょっと買い物に出かけただけかもしれない。
ドアに寄りかかって、しばらく待った。ゲームでも持ってくればよかった、と思った。そのうち立っているのに疲れて、体育座りになる。空の色が夕焼けから夜に変わっていくにつれて、ボクはだんだん心細くなってしまった。急に冷たくなった風に、ボクは身を縮める。1時間ぐらい待ったころ、ようやく階段を登る音がしたかと思ったら、別の部屋の女の人だった。女の人はボクのことを変な目でじろじろ見てから、自分の部屋に入っていった。ボクは余計に体を小さくした。
いつまで待っても、お姉ちゃんは帰ってこなかった。あたりがすっかり暗くなって、部屋の前から見える公園の時計が6時の15分前を指したところで、ボクはあきらめて帰ることにした。期待が大きかっただけに、帰り道の足取りは重かった。
家に着くと、玄関に出てきた母さんが「あら残念、ちょうど行き違いになっちゃったわねえ」と苦笑いをした。
「えっ、行き違いって?」
「実はね、さっきまでナナミちゃんが来てたのよ。睦月に会いたがってたんだけど……」
ボクは自分の運の悪さを呪った。だけど母さんの話はそれだけでは終わらなかった。
「なんでもナナミちゃん、明日から友だちと旅行に出かけるらしいわよ。しかもイタリアですって。いいわねえイタリア、母さんも行ってみたいわあ」
運が悪いどころか最悪だった。ボクはすぐに「それで、お姉ちゃんいつ帰ってくるって?」ときいた。けれど母さんはのん気に、「さあ、日にちは言ってなかったけど、1週間ぐらいじゃないかしら」といい加減な答え。ボクは目の前が真っ暗になるのを感じた。これじゃあしばらくお姉ちゃんの家にオムツをもらいに行くこともできない。
ボクは思わずもう一度、お姉ちゃんの家に引き返そうとした。だけど玄関を出ようとしたところで、母さんに止められる。
「あらあら、どこ行くの? もう6時を過ぎてるでしょう。明日になさい」
ボクは返事ができなかった。ただ開けかけたドアを静かに閉めて、力なく玄関に上がった。とぼとぼと自分の部屋に戻る。
部屋の電気もつけずに、ボクはベッドに横になった。それから、もしかしたらお姉ちゃんはわざとこんな時期に旅行に出かけたんじゃないか、と疑った。ボクがオムツなしで苦しんでいるのを想像して、旅行先の外国でにやにやするつもりなんじゃないだろうか。
ベッドの上で丸くなり、ボクは小さく声をしぼり出す。
「…………お姉ちゃんのいじわる」
ボクもう、がまんできないよ。
母さんがモモといっしょにお風呂に入っている間に、母さんの部屋に忍びこんだ。居間に見当たらなかったオムツの袋は、やっぱりここにあった。中をのぞくとオムツはもう残りわずかで、数が減ったら気付かれてしまいそうだったけれど、それでも止められなかった。ボクは紙オムツを盗み出して自分の部屋に戻った。
ドアに寄りかかって、少しの間息を整える。ボクは片手に握った紙オムツを見つめた。夢中でつかんできたせいで、ちょっとつぶれていた。さくら色のプーさんのオムツ。これが履けないことはわかってる。だけどパンツの中に入れたりしたら、きっと−−
ボクはパジャマのズボンとパンツをいっしょに脱いで、床に腰を下ろした。ひやりと冷たい床の感触。ちょっともったいない気がしたけれど、オムツの両脇を破って、それをおしりの下にしく。ふかふかした肌ざわり。オムツの上を両手でつかんで引っ張りあげる。やわらかなオムツの感触がちんちんに押し当てられた瞬間、体の中身がぶるっ、と震えて、ボクは無意識に変な声を出していた。
(きもち、いい…………)
モモのオムツはやっぱりかなり小さくて、見下ろしてみるとオムツの上からほんのちょっとだけちんちんの先がのぞいていた。そのちんちんが、お姉ちゃんにしつこくいじられたときと同じように固くなって、ぴくぴくと動いている。ボクはだらしなく口を開いたままそれを眺めている。
頭の中がぽやーっとしていた。そして気が付くと、ボクの手は勝手に動いて、紙オムツの内側をちんちんにこすりつけるように上下させていた。オムツがこすれるたびに、ちんちんの先っぽにおしっこが出そうな感じが集まって、それがすごくすごく気持ちよかった。
こんなことしてちゃだめだ、と思った。母さんも、ちんちんなんかいじっちゃだめって言ってたじゃないか。頭ではちゃんとわかっているのに、ボクは自分の手を止めることができなかった。開きっぱなしの口がかわいて、そこから自分じゃないみたいな高い声が出た。自然に手の動きが激しくなっていった。ちんちんの先が熱くて、今にもなにかが爆発して溢れてしまいそうだった。だけどボクはもう、気持ちいいことしか考えられなかった。
(もうだめッ、出ちゃう−−)
その瞬間、ボクは前かがみになってオムツの前をぎゅっと押さえつけた。それと同時にちんちんの先からオムツの中へ、熱いなにかが何度も勢いよく飛び出した。ぞくぞくっ、という感覚が体中に広がって、ボクは悲鳴みたいな声をあげた。
それから少しの間、ボクは魂が抜けてしまったようにぼんやりしていた。そのあとでオムツの中をのぞいてみると、ちんちんの先から、白い液がとろとろと流れ出していた。オムツの内側とボクのおなかの下にも、同じ白い液がべっとりと付いていた。
「…………せいえき、出ちゃった……」
ぽつりと、ボクはつぶやいた。前にお姉ちゃんが教えてくれた。この白いおしっこは、男の子がエッチな気分になったときに出ちゃうものなんだって。
お気に入りのオムツにこびりついたそれを呆然と眺めていたら、自分がとても汚くて最低なことをしてしまった気持ちになって、じわりと目に涙がにじんだ。ボクは近くにあった箱からがむしゃらにティッシュを引っ張り出すと、体についた白いべとべとをふき取った。思いっきり力をこめて、ふいた部分がひりひりして赤くなるまでごしごしふいても、まだきれいに取れないような気がした。
「もう、やだよう……」
涙のつぶがオムツの内側に落ちて、ちんちんから出た白い液と混ざった。ボクは汚れた紙オムツとティッシュをいっしょのビニール袋に入れて、きつくきつく口をしばる。それをベッドの下に隠すと、パンツも履かずに枕に顔をうずめて、ボクは泣いた。
そしてその夜、ボクは2度目のおねしょをしてしまった。
おしっこでびしょびしょになってしまった布団を、母さんにばれる前に乾かすのはとても不可能だった。それでもなんとか隠そうと病気のふりをして布団の中で丸まっていたら、母さんに無理やり布団をはがされて、おねしょのあとを見つけられてしまった。
ぬれたズボンとパンツを脱いだまま、恥ずかしすぎて泣きそうになるのを必死でがまんしているボクに、母さんはやさしく言った、
「気にすることなんてないのよ。誰だってたまには失敗しちゃうこともあるわ。今日はお天気もいいから、このくらいすぐ乾いちゃうわよ」
母さんはてきぱきとシーツをはずして、部屋を出て行こうとする。その背中に向かって、ボクはとっさに「あっ、あのさ」と声をかけた。
「あの、また、おねしょしちゃったら大変だから……その、だいじょうぶかな、って……なにもしないで……」
パジャマのすそでちんちんを隠しながら、ボクはもじもじと言った。母さんが振り返って首をかしげた。ボクはますます小さな声になりながら、
「だから、その…………オムツ、とか……」
ボクの言葉に、母さんはきょとんとした顔になってから、口元に手を当ててくすくすと笑い出した。それからこっちに戻ってくると、ボクの頭をなでて言う、
「そんなに心配することないわ。寝る前にあんまり飲み物を飲まないように注意して、ちゃんとトイレに行ってから寝ればだいじょうぶよ。それに睦月はお兄ちゃんなんだから、オムツなんて履くの嫌でしょう?」
にっこりと微笑む母さんに、ボクはぎこちなくうなずくしかなかった。
学校から帰って確認すると、天気がよかったせいかおねしょの布団はもう乾いていた。目をこらすとほんの少しだけ薄黄色の染みが見える程度で、おしっこのにおいも全然残っていなくて、ボクはほっとした。
でも、いくらほとんど跡が残らないからって、またおねしょで布団をびしょぬれにするわけにはいかない。やっぱり、ボクにはオムツが必要だ。今度はもう絶対、昨日みたいに変なことをしたりしないから。
そう思って、また母さんが買い物に出ている間に部屋に忍びこんでみると、モモのオムツの袋がまた見当たらなくなっていた。昨日ボクが盗んだのがばれちゃったせいだ、とすぐに気付いた。だけど今はそのことを心配するより先に、オムツを見つけ出さないと。ボクはすぐに心当たりの場所を探し始める。けれど、オムツはどこにも見つからない。どうしよう、オムツがなくちゃ、ボクはまた−−
どんどん時間が過ぎていって、そろそろ母さんが帰ってきそうだった。ボクはもうどこを探せばいいかもわからなくて、ただ頭を抱えて居間をうろついていた。そのとき、ゴミ箱の中のそれが目に入った。モモが履き替えた、使った後の紙オムツ。丸めてテープで止めてある。
ボクはごくん、と口の中のものを飲みこんだ。考えるより先に体が動いていた。ボクはゴミ箱の前にひざをつくと、中のそれを拾い出す。使用済みの紙オムツは、まだほんのちょっと温かった。
こんなの、汚いってことはわかってる。だけど、おしっこだけならまだ履けるられるかもしれない。そうだよ、またおねしょをしちゃう方が、もっと大変なんだから。
口の中はもうからからだった。今ではボクの呼吸の音は、まるで人間じゃなくて犬かなにかみたいになっていた。丸めたオムツを両手で包んだまま、ボクは何秒間か固まっていた。それから意を決してテープの端をつまむと、いっきにそのテープをはがした。
びりびりっ、とテープのはがれる音。その音が耳に届いた瞬間、ボクはふいに正気に戻って、やけどしたみときたいに紙オムツをゴミ箱へ放り出した。
部屋の中に、はあはあという声が響いていた。自分のしようとしたことが信じられなかった。
ボクは自分の両手を見つめた。手のひらには、まだモモが使った後のオムツの温度が残っていた。ボクは急いで洗面所に向かう。石けんで念入りに手を洗いながら、ボクはとてもみじめな気持ちになった。
夕食の後は一度も水を飲まず、寝る前には10分以上トイレにこもって、ちんちんが痛くなるくらいおしっこを出しきったはずだったのに、ボクは2日連続でおねしょをしてしまった。
母さんは昨日と変わらずやさしい笑顔だったけど、ボクがあんまり暗い顔をしていたせいか、オムツの代わりにおねしょシーツを敷いてくれた。もともとモモのトイレトレーニングために買ってきたものらしい。そのことを聞いて、ボクはさらに落ちこんだ。
その日以来、ボクは全然眠れなくなった。たぶん無意識に、寝ちゃだめだと思っていたせいだと思う。だって、眠らなければおねしょはしないから。ほとんど眠らず、夜中に何度もトイレに行ったおかげで、その後はずっとおねしょをしないですんでいたけれど、代わりにボクはひどい風邪をひいてしまった。
日曜日に高い熱が出て、当番のお医者さんにみてもらったあと、2日間学校を休んでずっと家で寝ていた。脱水症状になるといけないとかでたくさん水を飲んだら、一度は治ったおねしょをまたしてしまった。おねしょシーツの効果は絶大で、下の布団がぬれることはなかったけれど、おしっこを吸い取りにくいせいか、目が覚めたときにおしっこと汗でパジャマがぐしょぐしょになっていて気持ち悪かった。
ようやく学校に行けるくらい熱が下がったのは、水曜日の朝のこと。だけど調子が良かったのは朝のうちだけで、2時間目の途中でがまんできなくなって保健室に行くと、昨日までと同じくらい熱が上がっていた。ボクはすぐに早退することになった。
ところが保健室から家に電話をかけると、留守番電話につながった。しきりに「困ったわねえ」をくり返す保健の先生に、ボクは言った。
「あの、ボクひとりで帰れるからだいじょうぶです。家の鍵も持ってるし」
「そうじゃなくて、保護者に連絡が取れない場合は帰しちゃいけないって決まりなのよ。困ったわねえ、ベッドはもう空いてないし」
学校中で風邪が流行っているらしい。ベッドはボクが来る前に満員だった。そっちの方を見つめる先生の顔は、困っているというよりは迷惑そうで、なんだかとても居心地が悪かった。
そこでボクは思いついて、先生にもう一度電話をかけてもらえないか尋ねてみる。どこにかけるのか、ときかれたので、お姉ちゃんのところ、と答える。
「お姉ちゃん? それ、あなたのお姉さんってこと?」
「いえ、そうじゃなくて、えと……お父さんの妹、なんですけど……」
おずおずとボクが言うと、保健の先生は怒ったように「そういうのはね、叔母さんって言うのよ」と言った。ボクはなぜかその言葉が気に入らなくて、くらくらする頭で「お父さんの妹です」とくり返した。
ボクは先生にお姉ちゃんの携帯電話の番号を伝えた。お姉ちゃんがもう旅行から帰ってきているかどうかは知らなかった。ただ、帰ってきていてほしい、とボクは願った。先生が受話器を耳にあて、しばらく間が空いてから、電話がつながったのがわかった。
先生が事情を説明する。受話器からかすかにお姉ちゃんの声がもれてきて、その声を聞いたとたん、ボクは涙が溢れてきてしまった。どうしてそんなふうになるのか、自分でもよくわからなかった。
受話器を置いてから、先生はボクを見下ろして言った、
「すぐに迎えに来てくれるそうよ。ところで今の人、本当にあなたの叔母さん?」
ボクは不愉快な気分で返事をしなかった。先生はふん、と鼻を鳴らして、そこに座って待ってなさいとボクに命令した。
それから5分もしないうちに、お姉ちゃんは到着した。全力で走ってきてくれたらしい。息を切らして保健室の窓をたたくお姉ちゃんの姿を見た瞬間、ボクは思わずすぐに駆けていって、お姉ちゃんに抱きつきたくなった。
先生に言われて、お姉ちゃんは玄関を回って保健室にやってきた。心配そうな様子で、「いきなり電話がかかってきたからびっくりしたよ。むぅちゃん、だいじょうぶ? ひとりで歩けそう?」と尋ねるお姉ちゃんに、ボクは涙まじりの顔で何度もうなずいた。
保健の先生はお姉ちゃんが予想外に若いことに驚いていたみたいだったけど、特に文句も言わずボクを帰してくれた。お姉ちゃんは保健の先生にあいさつをしてから、ボクの手を取った。少し冷たくて、気持ちのいい手。ボクは安心のしすぎで、体中の力が抜けてしまいそうだった。それでもなんとか立ち上がって、お姉ちゃんの横に並んで歩き出した。
「昨日の真夜中に帰ってきたんだよ。今日学校が終わったころに、むぅちゃんの家に行こうと思ってたんだけど」
玄関でくつをはき替える間も、お姉ちゃんはずっとボクの手を握っていてくれた。熱のせいで、お姉ちゃんの手もすっかり温かくなっていた。
「旅行に出発する前の日にね、むぅちゃんにうちの鍵を渡そうと思って家に行ったんだよ。でもむぅちゃん留守で渡せなくて……旅行中もずっと心配だったんだけど、オムツがなくてだいじょうぶだった?」
お姉ちゃんの声はちっとも意地悪な感じじゃなくて、不安そうで申し訳なさそうだった。お姉ちゃんは旅行の間も、ボクのことを心配してくれてたんだ。うれしかったけれど、熱でぼんやりしていて返事をするのがつらかった。お姉ちゃんはさらに、「あ、友だちと旅行っていっても、男友だちととかじゃないからね。お姉ちゃんはいつでもむぅちゃん一筋だよ」と言った。ボクを元気づけるための冗談だってわかったけど、ボクはそれもうれしかった。
「むぅちゃん、本当に平気? 歩くのつらいなら、校門出たところでおんぶしてあげよっか? それともタクシー呼ぶ?」
お姉ちゃんの声が本気で心配そうだったから、ボクはどうにか笑顔を作って、「ううん、平気」と返事をした。これ以上お姉ちゃんを心配させるのは嫌だった。本当はもう、体がふわふわと浮かんでいるような感じで、歩いているのもやっとだったんだけど。
すごくゆっくりなペースで、ようやくお姉ちゃんの家まで半分くらいのところまで来た。足元に横断歩道が見えて、ボクはふらふらとその先に足を進めようとした。その瞬間、ぐいっ、と体を引っ張られた。
「危ないっ」
お姉ちゃんの鋭い声。少し遅れてボクの目の前を大きな自動車が横切っていく。ぽかんとして信号機を見上げると赤だった。危うく車にひかれるところだったらしい。けれどまったく恐怖心もなくて、ボクはまたぼんやりとうつむいた。そのときだった。
ズボンの前がぬれていた。まずそれに気付いた。そのあとで、ちんちんからおしっこが溢れ出ているのがわかった。続いて太ももの内側から足の下の方にかけて、生温かい水の感触。ボクは声も出せずに凍りついてしまった。おしっこの音は聞こえなかった。ただボクの視線の先で、ズボンの染みはどんどん広がっていった。
そこでようやく、ボクは自分が今、おもらしをしちゃっていることに気が付いた。
「むぅちゃん?」
お姉ちゃんの声にはっとわれに返り、ボクは上着でズボンの前を押さえてしゃがみこむ。それでもおもらしは止まらなかった。いつか見た夢と同じで、ちんちんに力が入らない。ズボンもパンツももうおしりの方までぬれてしまっているのがわかった。ズボンから染み出したおしっこがぽたぽたとたれている。ぬれたズボンが足にくっついて気持ち悪かった。お姉ちゃんの声が聞こえたけれど、なんて言っているのかよくわからなかった。
おしりの下の地面に小さな水たまりを作って、ようやくおしっこは止まった。それと同時に涙がこみ上げてきて、ボクは泣いた。わあわあと本当の赤ちゃんみたいに泣いた。恥ずかしいのか悲しいのかくやしいのか、それさえもわからなかった。
気付いたらお姉ちゃんがボクの前にしゃがんで、ボクをおんぶしようとしていた。抵抗しようとしたけれど、お姉ちゃんはかまわずにボクを背負う。だめだよ、おんぶなんかしたら、お姉ちゃんの服まで汚れちゃう。そう言おうとしたけれど、出てくるのは言葉にならない泣き声ばかりだった。
「こうしてれば、おもらししたの見えないでしょ」
お姉ちゃんがささやくように言った。ボクはお姉ちゃんの背中に抱きついて、お姉ちゃんの肩に顔を押しつけた。まだ涙が止まらなかった。ボクはぐずぐずと泣きながら、これまでのことを話した。オムツを買いに行ったらサキちゃんに見つかってしまったこと。お姉ちゃんの家にも行ったのに留守だったこと。モモのオムツを盗んでエッチなことをしてしまったこと。その次の日から、続けておねしょをするようになってしまったこと。
別に全然お姉ちゃんのせいじゃないのに、なぜかボクは責めるような口調になっていた。そのたびにお姉ちゃんは何度も「ごめん、ごめんね」とくり返した。
そのうちに泣くのも話すのも疲れてしまって、ボクは本物の赤ちゃんみたいにただうとうとと、お姉ちゃんの背中でゆられていた。
たくさん泣いて話したかったことを全部話したら、お姉ちゃんの部屋につくころには、少しだけ具合がよくなったような気がした。それから30分くらいあと、ボクは裸にタオルケットを一枚かぶっただけの格好で、お姉ちゃんの部屋にいた。おもらしでぬれた服を洗濯している最中で、それが乾くまでボクの着るものがないせいだ。
ううん、本当は着るものならたくさんある。いつも履いていた紙オムツがいっぱいあるし、布オムツとオムツカバーだってある。ボクのサイズにぴったりの赤ちゃん服もいくつもある。ただボクがそれを着るのを嫌がったのが原因。
「さて、と。そろそろなにか着てくれないと、お姉ちゃんは今にも野獣と化してむぅちゃんに襲いかかってしまいそうなわけですが」
両手にかわいい赤ちゃん服をぶら下げて、お姉ちゃんが言った。ボクはうつむいて返事をしなかった。お姉ちゃんは「むう」と難しい顔をしてから、ふと思い出したように、
「あっ、あれだよ。ちゅうしてくれなきゃオムツあげないって、あれは冗談だからね。もしかして、そのこと気にしてる?」
「そっ、そんなんじゃないです!」
真っ赤になった顔を見つからないように、ボクはそっぽを向いた。するとお姉ちゃんが「おやあ、その反応はもしや図星かなあ」なんて言いながらボクの顔をのぞきこんでくるので、ボクは体育座りのままじりじりと体の向きを変えて、お姉ちゃんの視線から逃れた。
ボクの見えないところで、お姉ちゃんがやれやれとため息をついた。だけど、ボクもため息をつきたい気分だった。
どうして、ボクは迷ったりしてるんだろう。ずっとずっと、オムツが履きたくてしかたなかったのに。モモがおもらししたオムツにまで、手を出そうとしたのに。それなのにどうして今さらまた、オムツなんて履いたりしちゃだめなんじゃないかとか、考えたりするんだろう。
すると、少しの間無言だったお姉ちゃんが「ふうむ」と不穏な声を出した。
「なるほど、どうもむぅちゃんオムツを履くの嫌がると思ったら、つまりはわたしの下着をご所望か。りょーかいりょーかい、そういうことなら−−えーっと、むぅちゃんでも履けそうなやつは……」
「わ、ち、ちがう、ちがうってば」
「いやいやだいじょぶ。ちゃんときれいに洗濯してありますので」
「そういう問題じゃなくてっ……」
風邪のせいでいつもみたいに大声を出せない。お姉ちゃんは言うが早いか、すでにタンスを開けて中の下着を手当たりしだいにぽいぽいと放り出している。色とりどりの下着が部屋の中を舞って、その中の1枚がちょうどボクの前に降ってきた。うっかりそのしましまの下着を3秒くらいじっと見つめてしまってから、ボクは慌ててそれを払いのけた。
そこへお姉ちゃんがやってきて、「じゃーん、これを見よ!」とボクの目の前に手に持った下着を広げてみせる。それは両側をひもで結ぶ形の小さなパンツで、薄い青の布地にひらひらしたレースの飾りが付いていた。お姉ちゃんが誇らしげな顔で言う、
「どう、かわいいでしょ。これなら横で縛るタイプだから、多少サイズが違っても履けるだろうし−−って、わああああああむぅちゃん!」
お姉ちゃんの言葉の途中で、ボクは頭がくらくらして、かくんと後ろに倒れてしまった。お姉ちゃんが慌ててボクを抱き起こす。ボクは鼻をおさえて目を閉じた。風邪とは別に熱がいっきに上がってしまった感じで、頭の中がぐるぐるしていた。
「ご、ごめん! おっぱい見ても平気なのに、まさか下着程度で倒れるとは思いもしなかったから、つい……」
「うううううう……」
うめき声で抗議して、ボクはお姉ちゃんをにらみつける。きっとまたにやにやしてるんだろうと思った。だけど予想に反して、お姉ちゃんはいつになく神妙な顔をしていた。
「いや、本当に反省してます。むぅちゃんが素直にオムツが好きだって認めないから、ちょっとだけ意地悪しようと思ってあんなうそついたんだけど、そのせいでむぅちゃんにつらい思いさせちゃって……許してもらえるかどうかわからないけど、とにかく、ごめんなさい」
そう言って、お姉ちゃんは深々と頭を下げる。そんなふうに真面目に謝られて、ボクはすっかり調子が狂ってしまった。ボクはさっきおんぶしてもらっているときに、お姉ちゃんを責めるようなことを言ってしまったのを思い出して慌てて言った。
「そんな、いいって。お姉ちゃんの意地悪なんかいつものことだからもう慣れてるよ。それに、オムツを履いてると赤ちゃんに戻っちゃうって話も、途中でうそだってわかったし。だってボク、オムツ履くのやめたのに、指しゃぶりとか赤ちゃんのまね全然治らなかったし、何度もおねしょしちゃったし、それに−−お、おもらしまで」
しちゃったし。言葉にしたらまた涙がこみ上げてきてしまって、ボクは口を閉じた。いつもみたいに、オムツの中にわざとするのとは違う、本当のおもらし。ボクはもう息もできないくらい、真っ暗な気持ちになってしまった。
「お姉ちゃん、どうしよう……ボク、ちゃんとオムツやめたのに……ボクの体、どんどん赤ちゃんに戻っちゃって、このままじゃ……」
涙まじりの声で、とぎれとぎれにボクはお姉ちゃんに言った。するとお姉ちゃんはわたわたした様子で、「ちがうちがう、そうじゃないんだよむぅちゃん」と声をあげた。
「ちがうって、だって……」
「だから、そうじゃなくて、むぅちゃんがオムツをやめてから何度もおねしょするようになっちゃったのは、単にストレスが原因なんだよ」
「……ストレス?」
ぼくは泣き顔のまま聞き返した。
「そう、ストレス。むぅちゃんも聞いたことぐらいあるでしょう? むぅちゃんぐらいの年の子だと、よくあるらしいんだ。好きなことを無理やりがまんしたりして、心に過剰な負担がかかると、一時的に赤ちゃんに戻っちゃったみたいに、おねしょしたり赤ちゃんのしぐさをしたりって」
「で、でもボク、最初のおねしょは別にオムツをがまんしてなかったのに……」
「それは本当にたまたま。前にも言ったでしょう、高学年でもおねしょしちゃう子は少なくないんだって。それからさっきのおもらしは、高い熱のせいでおしっこの出るところがちょっと変になってただけ。だからこれからもまた、おもらししちゃうなんてことはないの」
今度もまたうそなのかも、なんて疑う余地なんかないくらい、お姉ちゃんは真剣な表情をしていた。ボクは、「そうなんだ……」とつぶやいて、体中の空気が抜けてしまうようなため息をついた。
それを見て、お姉ちゃんが安心したように言った、
「さ、それじゃあもう、なにか着てくれてもいいでしょう? どれにする? 先月作ったカバーオールがあったかいから、あれがいいかな」
「あ、う、うん……」
ボクはそれでもやっぱり、素直に返事をすることができないでいた。胸の中のもやもやはまだ消えなかった。ボクが下を向いてためらっていると、上の方でお姉ちゃんがふっ、と微笑むのがわかった。お姉ちゃんは、ふいにボクに尋ねてきた。
「むぅちゃん、抱っこしてもいい?」
そんなことをきかれるのは、たぶん今回が初めてだった。いつもお姉ちゃんはなにもきかずに、突然ボクに抱きついてきたりするから。ボクはどぎまぎしながらうなずいた。するとお姉ちゃんはボクの後ろに座りなおして、やさしくボクをひざの上に抱き上げた。そのひょうしにタオルケットが落ちてしまって、ボクは慌てて足の間を隠した。
少しの間、お姉ちゃんは黙ってボクの体をゆすっていた。ゆりかごのようなお姉ちゃんの腕の中。最初のうちは緊張していたボクの体も、いつの間にか力が抜けてお姉ちゃんの腕に身を任せていた。やがて、お姉ちゃんは言った。
「ねえ、むぅちゃんはどうして、オムツを履いたりするのはいけないことだと思うの」
「それは−−」突然尋ねられて、ぼくは答えに詰まってから、「だって、赤ちゃんでもないのにオムツなんて、変だから」
「変なのは、いけないこと?」
お姉ちゃんの声は、問い詰めるふうじゃなく、やさしかった。ボクは「それに、恥ずかしいし、母さんとかに見つかったら絶対怒られるし」と、しどろもどろに付け足してから、助けを求めてお姉ちゃんの顔を見上げた。答えている間に、ボクは自分でもどうしてなのかよくわからなくなってしまった。
お姉ちゃんは、そんなぼくの髪をなでながら、「わたしは、別にいけないことじゃないと思うな」と言った。えっ、とぼくは聞き返す。
「たしかに、オムツが好きなんて変わってるし、人に知られたら恥ずかしいかもしれないけど、でも、人に言えない秘密のひとつやふたつ、誰にだってあるんだから。むぅちゃんの場合は、それがたまたまオムツだったってだけ。それを悪いことだなんて思う必要はないし、ましてや好きなことを無理やりがまんすることなんて、ないと思うよ」
ボクはぽかんと口を開けたまま、お姉ちゃんの瞳を見つめた。やさしくボクにほほえみかける、お姉ちゃんの瞳。無意識のうちに、ボクは「本当に、そう思う?」と問いかけていた。お姉ちゃんは、しっかりとボクにうなずいてみせる。そのとたん、胸の中がすうっと軽くなった気がした。
「……お姉ちゃんにもあるの、秘密」
ぼくが尋ねると、もちろん、あるよ、とお姉ちゃんはボクを見てにっこり笑った。
さあ、素直になっちゃいなさい。お姉ちゃんがぼくの背中を押すように言った。ボクは一度うつむき、それからまたお姉ちゃんの顔を見上げると口を開いた。
「あの、あのね、お姉ちゃん。ボク、オムツ履くの、好きだよ」
ボクの心臓は、これまでにないくらいどきどきしていた。だけどそれは恥ずかしいからでも、悪いことをしているときの苦しい気持ちのせいでもなかった。ボクの言葉に、お姉ちゃんがうん、と満足そうにうなずいた。ぼくは続けた。
「オムツにおもらししちゃうのも、赤ちゃんみたいにお姉ちゃんに抱っこしてもらうのも、なでなでしてもらうのも、全部好き。だから−−」
そこで、ボクは言葉を止めた。お姉ちゃんがボクの瞳をじっとのぞきこんでいる。ぼくはやっぱりちょっとだけ恥ずかしくて、少しだけ目を伏せてから、上目遣いでお姉ちゃんに言った。
「だから−−オムツ、履かせてくれる?」
「もちろん。さあ、お着替えしましょうか」
パチン、パチンと、お姉ちゃんが赤ちゃん服の股のボタンを留めてくれる。ボクが着ているのは、太ももが出るタイプのロンパース。体全部を覆うやつの方があったかくていいんじゃない、とお姉ちゃんにすすめられたけれど、こっちの服の方がボクはお気に入りだった。クマ耳のフードまで付いた、お姉ちゃんの自信作だ。首の周りにはよだれかけを結んで、足が冷えるといけないからということで、太ももまであるぽんぽん付きの靴下をはいている。そして赤ちゃん服の中には、一番大好きなプーさんの紙オムツ。
着替えを全部終えると、お姉ちゃんがボクに尋ねた、
「どう、ひさしぶりのオムツと赤ちゃん服は?」
「……うん、すごく、きもちいいかな」
ボクははにかみながら答える。熱で頭は熱かったけれど、それよりも胸がほんわかと温かかった。お姉ちゃんは「それじゃあお昼寝しましょうか。しっかり休んで、早く風邪治さないとね」と言うと、ボクをお姫さまだっこして、ベッドまで連れて行ってくれる。
ボクをベッドに寝かせて布団をかけると、お姉ちゃんは母さんに電話をかけると言って、向こうへ行こうとした。そのとき、ボクの手は勝手に動いて、お姉ちゃんの服のすそをつかんで止めていた。お姉ちゃんが「うん?」と振り返る。ボクはちょっとの間ためらってから、
「あの……いっしょに寝よ」
お姉ちゃんはにこっ、とうなずいた。ボクが壁際に寄って場所を作ると、お姉ちゃんはそこにもぐりこんでくる。同じ布団の中、ボクのすぐとなりに、お姉ちゃんの体がある。いつももっとぎゅっとくっついていたりするのに、なぜか普段より緊張してしまって、ボクはお姉ちゃんの方を見れないでいた。
お姉ちゃんはボクの胸の上に手のひらを置いて、時おりやさしくたたいてくれる。最初はどきどきいっていた心臓も、そのうちに落ち着いてきた。
「ねえ、お姉ちゃん」ボクは尋ねた、「お姉ちゃんの秘密って、なに?」
「うん、なんのこと?」
「さっき言ってたじゃない。ボクがオムツのこと秘密みたいに、お姉ちゃんにも秘密があるって」
ボクがそう言うと、お姉ちゃんはボクをぽんぽんしていた手を止めて、黙ってしまった。少しの間待ってみても、返事はなかった。もしかしたらいけないことをきいてしまったのかもしれない。ボクは不安になって慌てて言った。
「あっ、あの、別に無理に答えてくれなくても−−」
「わたしの秘密はね」
お姉ちゃんの声が、ボクの言葉をさえぎった。お姉ちゃんはまたちょっとだけ口を閉じてから、意を決したように言った。
「わたしの秘密は、自分より10歳も年下の小学生の男の子を、本気で好きになっちゃったこと」
それは、冗談を言うような声じゃなかった。緊張して、少しだけ震えた声。ボクはびっくりしてお姉ちゃんの方を向いた。そこにはいつもの意地悪な表情はなくて、かわりになんだか泣きだしそうな、初めて見る笑顔があった。
その顔を見ていたら、ボクはいつの間にか顔を近づけて、お姉ちゃんのくちびるにちゅうをしていた。ぎゅっと押し付けるんじゃなくて、そっとさわるような感じで、ボクのくちびるとお姉ちゃんのくちびるが重なる。お姉ちゃんは動かなかった。ボクも夢の中みたいに動けないでいた。息さえしていなかった。

くちびるがくっついたまま、数秒間。それから触れたときと同じように自然に顔を離した。口を薄く開いて、ぽかんとしているお姉ちゃんを、ボクは見つめた。もしかしたらボクも、似たような顔をしているのかもしれなかった。また少しの間があって、突然心臓が急激に鳴り始めた。ボクははっとして言った、
「わ、ご、ごめんなさい! 風邪、うつっちゃうかも……」
「い、いやいやいや、むぅちゃんの風邪なら大歓迎だよ。あははははは」
お姉ちゃんの笑い方もすごく慌てた感じだった。
それからまた、ボクとお姉ちゃんは無言で見つめあった。なんだか急に不安になって、ボクが口を開きかけると、お姉ちゃんはボクの口の前に人差し指を立てて止めた。
お姉ちゃんがボクの背中に腕を回して、ボクを抱きよせる。ボクもお姉ちゃんの胸に顔をうずめて、お姉ちゃんをそっと抱きしめた。少しだけ急ぎ足の、お姉ちゃんの心臓の音が聞こえた。
「…………あったかい」
まるでおもらしのときの温かな水が、オムツの中に広がっていくみたいに、体中に気持ちのいい温度がじんわりと広がって、ボクはゆっくりと瞳を閉じた。
モモのトイレトレーニングは、順調に進んでいるみたいだった。最近はお昼の間、オムツじゃなくてトレーニングパンツを履いていることも多い。
その話をお姉ちゃんにしたら、お姉ちゃんはにやにや笑って、
「ふーん。それじゃあむぅちゃんのことだから、またうにゃうにゃなやんでたりするんじゃないの? モモちゃんがオムツ卒業しそうなのに、お兄ちゃんのボクが−−みたいに」
「別に、だってボクは好きでオムツ履いてるんだもん」
お姉ちゃんのひざで哺乳びんをちゅうちゅうしながら、ボクは答える。それを聞いたお姉ちゃんは、ボクの髪をなでで「ほうほう、むぅちゃんも成長したねえ」と満足そうに言う。
そんなことよりボクの心配事は、5月の終わりにある宿泊訓練だった。クラスのみんなと2泊3日のお泊まり学習だ。この前の風邪が治ってから、おねしょはほとんどしなくなったけど、それでもときどき失敗してしまう。毎晩オムツで寝ているから、母さんにはばれていないのはいいとして、オムツを持っていけない宿泊訓練の最中におねしょなんかしちゃったら一大事だ。
そう思ってなやんでいると、お姉ちゃんは他人事のように、
「そんなに気にしなくても、恥ずかしがらずに堂々としていれば、オムツ履いてるなんて周りの人にはわかんないよ」
「そんなこと言ったって、やっぱり……」
「だからさ、むぅちゃんが変に意識して恥ずかしがるのがいけないんだってば。よし、それじゃあむぅちゃんがオムツを履いても自然に振る舞えるように、まずは学校へオムツを履いて行ってみよう!」
「それは絶対イヤ!」
ボクは全力で断った。お姉ちゃんは簡単に言うけど、学校なんかにオムツを履いていったら、いつみんなにばれちゃうかわからない。誰かとぶつかったときに気付かれてしまうかもしれないし、友だちといっしょにトイレに行ったときに見られてしまうかも−−あれ、けどオムツを履いてるから、トイレでおしっこしなくてもいいのか。ってことは、みんなのいる教室でおもらしとか−−
想像していたらなぜか胸がどきどきしてきた。ボクがふるふると首を振って頭の中の妄想を打ち消していると、お姉ちゃんが「ふうむ」と考えるしぐさを見せて、
「要はむぅちゃんの恥ずかしがりな性格が治ればいいわけでしょ。だったら学校じゃなくても、オムツ履いていっしょにどこかお出かけしてみる? あ、けどそれじゃたいして恥ずかしくないから、この際ぜひ女の子の格好とかにも挑戦してみてはいかがでしょうか」
「なんでそうなるの!」
「だってむぅちゃんすごい似合いそうだし女装。ていうか実はすでにむぅちゃんにぴったりなサイズの女の子服が用意してあったりしますはいこのとおり」
お姉ちゃんは近くにあった紙袋から、プーさんのオムツに似たさくら色のワンピースを取り出してかかげてみせる。ボクはあまりの準備のよさにあ然とする。
ワンピースはスカートが3段のフリルになって、胸元には大きなリボンがついていた。思わずちょっと見とれてしまってから、ボクは大声で「こ、こんなの着れるわけないでしょ! ボク男の子だよ!」と文句を言った。
「でもむぅちゃん、オムツはいつも女の子用じゃない」
「そっ、それは−−とにかくだめ! だめなものはだめなの!」
強引に言い張ると、お姉ちゃんはちぇー、と口をとがらせてワンピースをしまった。
「あーあ、つれないなあ。お姉ちゃんはただむぅちゃんとデートしたいだけなのに」
「だったら別に女の子の格好しなくてもいいでしょっ」
「ぬぅ、そう言われればたしかに」
言われなくても気付いてよ!
「じゃあさ、今度の日曜日デートしない? 小春さんにはわたしからうまく言っておくからさ、どっか遠くへ遊びに行こうよ。もちろん普通の服で」
妙に普通の服を強調するあたりが逆に怪しかった。だけど「本当に普通の服だよ」と念を押す前に、ボクは首をたてに振っていた。
お姉ちゃんと、デート。ボクは心の中で、その響きをたしかめてみる。くすぐったくて、うれしい感じがした。これまでの経験から考えると、結局最後はさっきの服を着て出かけることになりそうな予感がしたけれど、お姉ちゃんとデートならそれくらいがまんしてもいいような気がしていた。
「ところでむぅちゃん、オムツの中はだいじょうぶかな?」
そう言って、お姉ちゃんはボクのズボンに手を伸ばす。実はさっきここに来る途中でおもらしをしちゃっていた。お姉ちゃんはオムツの中に手を差しこんで、ぬれているのを確認すると、
「あ、やっぱりおしっこ出ちゃってるね。それじゃあ、オムツ替えるからたっちしてください」
と、赤ちゃん言葉でそう言った。ボクはうなずいて立ち上がると、お姉ちゃんの方を向いた。ひざ立ちになったお姉ちゃんの肩に手を乗せる。お姉ちゃんがボクのズボンを降ろして、ぬれたオムツを替えてくれる。
新しいプーさんのオムツをボクのおへそまで引き上げると、お姉ちゃんは「はい、できあがり」とボクのおしりをやさしくたたいた。それを合図に、ボクはお姉ちゃんに抱きついた。お姉ちゃんはボクを受け止めて、赤ちゃんにするように背中をなでてくれる。
−−あったかくて、しあわせな気持ち。ボクはお姉ちゃんの顔を見上げて言った。
「……お姉ちゃん、大好き」
「わたしも大好きだよ、むぅちゃん」
モモのオムツは、そろそろ外れそうだけど−−
ボクはまだまだ、オムツを卒業できそうにないみたい。
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